大きな木と木造校舎

 ここ5年程、ずーっと大好きで見続けてきた木があった。それは、そのあたりの森にはいくらでもある、一抱え程の太くて大きな木だった。その大きな木は、入口が狭くて中が広いすてきな洞を持っていた。樹齢300年程のナラの木である。登山道からほんの少しそれた所に立っていて、私は勝手に『妖精の国の入口の木』と名づけて、度々その木に会いに行っていた。その太い幹の根元に背もたれてぼーっとしていると、とてもいい気持ちになれた。理屈ではなく、森には森の時間が流れていることを感じることができた。同時に、自分の心と身体が求めている時間であることにも気付くことができた。そこに座っていると、どんどん自分の心が素直になっていくのが分かった。「よくがんばっているね」と、頭を撫でてもらっているような気持ちになれた。いつも、ずーっとそこに居たいと思った。私はすっかり惹かれていった。
 今年は、春から忙しい日が続き、あの大きな木にやっと会いに行けたのは、もう初夏になってからだった。森の入口で、私は、森の雰囲気が変わってしまっていることに気付いた。いつもより明るい森になっていたのだ。そして、思わず目を細めてしまった。大きな木は、洞の少し上のあたりから折れていたのだ。春先の重い雪に耐えられなかったのだろう。とても、とても悲しかった。
 けれど、私は幾日かして嬉しくなった。私は、300年も生きてきたあのナラの木の、最後の最後に惹かれ、付き合うことができたのだ。獣や小鳥や、虫や苔と一緒に多くのことを与えてもらいながら。

 15年程前のこと。その朝私は、隣町の田の沢蜂場に行くために夜明けを待ってトラックを走らせた。猿田越えという小さな峠を越えると、大江町本郷地区に出る。そして田の沢へ向かう大きな道路とのちょうどぶつかりのあたりに、大江町立本郷東小学校がある。今は立派な鉄筋コンクリートの学校になったが、あの時はまだ古い木造校舎だった。その学校は、少し小高い所にあるので、道路から堂々としたその校舎全体を望むことができる。その小学校はその朝、朝日をいっぱい浴びて、キラキラ、キラキラとても美しく輝いていた。私は目が奪われ、思わず車を止め見とれてしまった。もちろん窓ガラスも屋根も反射して輝いていたのだろうが、どういうわけかその時は、木板の鎧張りの外壁がとても美しく眩しく見えたのだ。まるで銅板が反射しているような、オレンジ色の光りに校舎全体が包まれているようなそんな感じがした。そしていつまでも見ていたいと思う程、とにかく美しかった。私は何度もここを通っていながら、その校舎を意識したのはこの時が初めてだった。
 三日後。その日も、習慣で朝早くに目を覚ました。窓の光の眩しさを確認した私は、ふとあの学校のことを布団の中で思い出していた。この天気なら、今日もきっとあの学校は輝いているだろうと予想したのだ。そして、あの美しさを写真に納めようと考えた。インスタントカメラを助手席に放ると、いつもよりもずっと速いスピードで車を走らせた。学校が見える場所が近づくにつれ、心の中は秒読みをしたくなる程ときめいていた。楽しみだった。そして、同じ場所に着き、心の中の「よしっ」の掛け声と共に、校舎の方を見上げて呆然としてしまった。
 ないのである。校舎が全くないのである。まるで狐につままれた感じだった。「あのキラキラ輝く校舎を見たのは、今朝見た夢だったのか」。一瞬我を疑ってしまった。不思議さを胸に、すぐに校舎のあった場所に行って見た。私は気が抜けてしまった。あの美しかった校舎は瓦礫になってしまっていたのだ。大型の重機で壊したのだろう。何もかもバリバリに砕け、山積みにされていた。たった三日間でのあまりにもの変わりように、私は思わずへたり込んでしまった。
 しばらく、ぼーっと瓦礫の山を見つめながら、私は思った。あの時見た美しさは、校舎自らが放った最後の魂の輝きだったのではないかと。校舎はきっと生きていたのだ。あきらめるしかない私は、軽く手を合わせ、瓦礫になった校舎を後にした。まだまだ私自身、時代とともに都会的なもの、新しいものばかりを求め、田舎のもの、古いものは恥ずかしいと思いこんでいた頃。そんなおかしな価値観が、日本中あたりまえだった高度経済成長の絶頂期のことだった。

 私の町にも素敵な木造校舎がある。旧大谷小学校大暮山分校は、童数減少と本校の新校舎落成に伴い合併、閉校になった。この夏、ちょっと話題になったイベント「白い紙ひこうき大会」を仲間と開催した学校である。木造校舎やひまわり、参加者の笑顔を背に、算数のテスト用紙で作った思い思いの紙ひこうきは、気持ちよさそうに空を舞った。それはあたかも映画のワンシーンを切り取ったような、とても美しい大会になった。
 大暮山分校と出会い、心惹かれるようになったのは、七、八年程前になる。校舎に作ったスズメバチの巣の駆除を頼まれ、下見に訪ねたのがきっかけだ。朝日町にこんな雰囲気のある木造校舎があったことを、恥ずかしながらその時初めて知った。一目惚れしてしまった。駆除後、スズメバチの生態を子供達に教えて欲しいと頼まれ、ほんの20分程だったが教壇に立つこともできた。それからは、度々校舎を眺めに通うようになった。
 私はなにより、校庭の遊具に腰かけ、校舎を眺めながらぼーっとしているのが大好きだった。とてもいい気持ちになれた。グラウンドの土の匂い。プールの塩素の匂い。ひまわりや入道雲。せみの声。木陰…。そこにいると、小学校や中学校の時のさまざまな思い出を甦えらせることができた。大好きな体育や工作の時間。水泳大会。雑巾拭きの掃除。床のワックス掛け。縁の下の思い出。けんか。初恋。嫌いな算数の時間。どういうわけか私 は、度々算数のドリルを学校に忘れて、その度に翌朝早く窓から忍びこんで取って来るものだった。誰もいない校舎の中はとても大きく感じた。印刷室の床板の隙間から覗くと、人の骨らしきものが見えて大騒ぎになったことがあった。雪が積もっている冬、パラシュートに憧れて、友達と二階の窓から傘を広げて飛び降りた。傘は折れ、体は雪に胸まではまってしまい、出るのにとても苦労した。学年が上がる時は特に、机に自分が存在した証しを刻みこんだ。ガラス磨きは好きだった。少しゆがんだガラスは、磨けば磨く程、輝きが違う気がした。先生が退院して学校に戻る日、前と後ろの黒板いっぱいに「おめでとう」とか「良かったね」などを書いて先生を迎えた。先生は授業のために「消したくない」と言いながら消していた…。それらの舞台になっていた木造校舎は、不思議なことに今でも隅の隅まで思い出すことができる。
 大暮山分校は、来年度取り壊しの予定になっている。財政困難の町では、とても再利用できないのが現状だ。買うのは簡単だが、維持し切れなければ、将来1000万円近くの取り壊し費用が必要になる。再利用して欲しくて躍起になっていた私だが、状況が分かるにつれ、声が低くなってしまった。取り壊しは免れないのだろうか。本郷東小学校のがれきの山が思い出された。
 近頃の私は、再利用しなくとも大暮山分校はあそこにあるだけでいいんだと思うようになった。中に入れなくてもいいから、せめてぎりぎりまで壊さないで、あのままにしておいて欲しいと。あの森の大きな木が、その命を森の中で静かに全うしたように、木造校舎もできるならば、無理やり命の灯を消してしまうのではなく、みんなに見つめられながら、自然にその生涯を終えられたらいいと思うのだ。それまでの時間が長くなるか短くなるかは分からないが、その間中、きっとあの校舎は多くの訪れた人に安らぎを与えてくれるだろう。こんな時代だからこそ、そんな第二の役割を果たさせて欲しいと願う。


補足

 先日のかぼちゃランタン作りに青森から参加下さった森林官の佐藤真帆さんが、すてきな夢を語って下さった。それは、誰でも森の中でごろごろ昼寝ができる『昼寝カフェ』。仕事柄、お昼休みの山の中の昼寝は、何より楽しみな時間だという。昼寝の気持ちよさは分かるが、あまりにも突飛なアイデアと素敵なネーミングに思わず吹き出してしまった。
 ところが困ったことに、この『昼寝カフェ』が私の頭の中にこびりついて離れないのだ。その理由が近頃分かった。それは、私も大暮山分校に望んでいることが同じだということ。校庭の遊具に腰かけてぼーっとしている時のあの気持ちよさ。いつも元気をもらっているようなあの安堵感。これまで自然体験施設とか、郷土資料館とか、具体的に再利用を考えることに躍起になっていて、その一番の良さを忘れてしまっていたのだ。老いた校舎を無理に頑張らせて使うより、老いた校舎が持つ役割を果たしてもらいたいのである。それは、あの場所にいてくれるだけでいいのだ。それだけできっと多くの人がいい気持ちになれるのだからほっとするのだから。
 いろいろアイデアが膨らんできた。まず、校庭に座り心地のいいベンチをいくつか置こう。ごろっと寝っころがれるものがいい。仕事に疲れたサラリーマンや若いアベックのために、国道から分校まで小さくておしゃれな案内板をいくつも設置しよう。校舎の中には入れないけれど、ガラスをいつもピカピカに磨いて、中が見えるようにしておこう。体育館は節穴から覗けるから大丈夫。雨の日は、大きなひさしのある小さな昇降口に入ればいい。そこに雑記帳を置いてみよう。分校入口の小さなお店で、あったかいコーヒーや紅茶を買えたらいいな。木漏れ日の下で読書もいい。毎年8月14日は白い紙ひこーき大会があるから、お墓参りに帰ってきた懐かしい人と会える。きっとその人は、自分の子供に自分の子供の頃の話を目をきらきらさせて話すだろう。
 何十年かしてついに危なくなったら、少しずつきれいに解体して、使える部分は思い出としてみんなで分けよう。自分の家の床や壁にはめ込んだその人は、きっと何十年も自慢し続けるだろう。「これはあの心が乾いた時代に、多くの人をほっとさせてくれた、あの大暮山分校のかけらなんだよ」と。

1999年11月通信「ハチミツの森から」より抜粋