学校の怪談

 夜の学校はどうしてあんなに恐いのだろう。特に木造校舎は恐ろしい。私は仕事柄、スズメバチの駆除を頼まれ何度も一人で夜の校舎を訪ねたことがある。しかし、いつもスズメバチよりも木造校舎の持つ得体の知れない暗闇の存在の方が、何倍も恐ろしく感じるのだ。深夜の墓地で一人で駆除作業をしたこともあるが、それよりもやはり、学校は何倍も恐ろしい。たとえば軒下の巣を駆除するために、外壁にはしごをかけて登ると、誰もいないはずの教室に誰かぽつんと座っているような気がする。見るまい見るまいと思っても、つい目がいってしまう。そして駆除している間中も、ずーっと教室の中が気になってしまうのだ。壁の中に作られた巣の駆除の時はもっと深刻だ。懐中電灯を持って、校舎の中に入らなければならない。きまって、廊下や階段のきしむ音が恐さを助長する。駆除にかかる時間も、ものすごく長く感じ、終わっても絶対に振り返らないように校舎をあとにする。ちなみに白い紙ひこうき大会の大暮山分校との縁も、そんな恐さから始まったものだ。
 この春、工房の二階に、旧大谷小学校からいただいてきた床板を張る作業をしている。実はその作業中に、赤黒い血がこびり付いた床板を見つけ、思い出してしまった。今までで最も恐かったのはまぎれもなくその「大谷小学校」だったことを。

 息子が学んでいた、巨大な二階建て木造校舎「大谷小学校」が、新校舎落成に伴い解体されたのは、一昨年秋のこと。なかでも梁が複雑に組まれた大きな体育館は、クレーンなどなかった時代の巨大建造物である。その職人達の仕事ぶりを想像すると、ため息がもれてしまう程の芸術作品に思えた。その校舎は、200haもの田んぼに囲まれており、もしも私が際限のない大金持ちだったら、田んぼに滑走路を作って、映画「紅の豚」のような小さな複葉機を買い、体育館はその格納庫にしただろう。そんな自由な想像を巡らすことが、まもなく役割を終える校舎へのせめてものはなむけに感じていた。
 南向きに横長の校舎は、長さが90メートル以上あり、廊下には白いセンターラインが引かれ、5メートル毎に距離が書かれていた。校舎は、向かって西側が73年前、中央が86年前、そして東側と体育館が50年前に建てられたものだそうだ。私のお目当ての床板は、その86年もの。その校舎は、当時、神戸で東和汽船という貿易会社を経営していた地元出身の資産家が寄贈したもの。ぴかぴかに磨かれた独特な斜め張りの幅広い床板は、大谷小学校の自慢でもあったのだ。
 解体工事が始まる三日前から最後の公開が行われ、小学生からお年寄りまで多くの卒業生が訪れ別れを惜しんだ。私は、家が近かったことと、当時、ミニコミ誌「朝日町新聞」の編集をしていたこともあり、毎日校舎を訪ね様子をうかがっていた。一番印象に残ったのは、各教室の黒板に、チョークで書かれた感謝や惜別のメッセージ。そのあたたかな最後の落書きは、日に日に増え、最終日にはどの教室の黒板も賑やかに彩られた。
 机に刻まれた落書きや、つるつるに丸くなった階段の手すり、手あかで黒ずんだ漆喰の壁、格子の歪んだ窓ガラス…。卒業生にとってこの校舎は、思い出の目録であり、思い出の中へいつでも戻れるタイムマシンだったのだ。「この校舎はいったいどれだけの人を育み、どれだけの思い出が染み込んでいるんだろう。」グラウンドで出番を待っている解体用の巨大なパワーショベルを脇目に、卒業生ではない私ですら、感謝の念があとからあとから涌いてきた。そして、落成したばかりの近代的な校舎が、とても軽薄でいやらしいものに思えてしまった。

 「バリバリ、メキメキ」
公開が終わったその日の夕方、予期せず校舎の取り壊しは始まった。「暦の日がいい今日のうちに」と始めたらしい。これは一大事だった。なぜなら、あのお目当ての床板に近い西側から崩していたのだ。私は解体工事期間が一ヵ月もあったので、すぐに壊すことはないだろうと思っていた。二階の図書室からたくさんの本が桜吹雪のように宙を舞った。あっという間に三教室分が崩され、あの床板の廊下は一教室分になってしまった。大きな誤算だった。
 業者が引き上げ静かになっても、重機のエンジン音と校舎がきしみ崩れる音は耳に残っていた。大きな泣き声のようにも聞こえ、静かな潔さにも聞こえた。私は崩れた瓦礫を前に、その晩のうちに床板をはずすことを決心した。

 懐中電灯、バール、のこぎり、金づち、そして意を決して、校舎へ入った。その日は月明かりもなく、校舎の中は案の定まっ暗だった。懐中電灯が蛍光灯式のものだったから、長い廊下は一教室分程をぼやっーと照らし出すだけで、その先およそ60メートルは全く闇の世界である。広い空間が、恐さの一因となることを痛感した。私は、すぐにわき上がってきたあの独特の恐怖感を、それ以上膨らませないように黙々と作業にとり掛かった。
 ところが、建物のしくみすら分からない素人が、暗がりの中で床板をはずすことは、思った以上に困難を極めた。釘を抜いても板の両端を大きな角材が押さえ付けていて、それをはずそうとしても、びくともしない。しょうがないので、床板の両端をのこぎりで切ってはずすことにしたが、これはとても時間がかかる作業になった。無理に力を入れると、打たれた釘がほぞを割ってしまう。一時間経っても、はずせたのはたった3枚。うまくいかずに時間だけが経ってしまう。焦りは、ますます60メートルの暗やみを意識させ、あきらめが何度も頭をよぎるようになった。
 そしてついに、それを決定するトラブルが起きてしまった。抜けた節穴を、床板2枚に渡りブリキ板で補修している所があって、それをはずそうと、小さなバールをすき間に勢いをつけて潜り込ませようとしたのだが、幾度目かに滑ってしまったのだ。軍手をはめてなかったから、ブリキの切り口で指を切ってしまった。あわてて蛍光灯に近寄って傷口を見ると、汚れた中指、薬指、小指の背からわき出た血が、すでに手の甲まで流れ出ていた。それを見たとたん、私の中の恐怖心も一気に膨れ上がった。私はパニックになってしまった。立ち上がって道具袋に道具を入れようとしたら、「ぼたぼたっ」と、血が床板に落ちる音がした。「校舎の祟りだ」私は逃げるように校舎をあとにした。

 思ったよりも傷は浅かった。それぞれの指にカットバンを二重に貼りながらまた考えてしまった。「きっと校舎の怒りに触れたんだ。」自分でやったことなのに、冷静に戻りつつも、つい校舎を擬人化してしまう。馬鹿げた解釈かも知れないが、私が軍手をはめなかったのも、汚いものを触るようでは校舎に対して申し訳ないと思ったからだった。
 翌朝は、一晩中の浅い眠りから、4 時半頃には目が覚めてしまった。そしてふと、夕べ私が残してきた血の跡が気になった。何人かに床板をいただくことを話していたので、誰かにあの現場を見られたら、私が床をはずしている最中に手を切ってあきらめたことが、一目瞭然になってしまう。私はまた、夜明けの校舎に向かった。
 夜明けの校舎はまだ薄暗いものの、なんの恐怖感もいだかせなかった。むしろいつも以上に安堵感に溢れた木造校舎独特の魅力を感じた。しかし、その分、壊されてしまった教室の瓦礫がとても痛々しく思えた。
 血の跡を拭き上げほっとしていると、校舎と道を挟んだ所に住んでいる白田茂さんがやってきて「おはよう」と声をかけてくれた。白田さんも私と同じで、解体期間中、毎朝のように、この学校にやってきた一人だった。白田さんが通ってくるのには大きな理由がある。50年前の東側の校舎建築に働いた人なのである。私は、夕べ手に終えなかったことを正直に話した。直後、白田さんがいなくなったと思ったら、なんとバール片手に戻ってきてくれた。「男だったら、欲しぐなったらなんでかんで捕らんなねぞ」。その一言に、私は思わず目頭が熱くなってしまった。そして二人で床板はずしが始まった。さすがに白田さんは校舎を熟知していて、昨日の苦労が嘘のように、惻々と、しかも傷ませることなくはずしていった。見事だった。そして、なんと一時間程で一教室分の廊下をはずすことができてしまったのだ。信じられない朝飯前の仕事になった。ひたすら感謝、感謝。とてもいい朝になった。

 その日の夕方、仕事から早めに戻り、急いで校舎に行くと、二人で床板をはずした校舎はなくなっていた。分かっていたこととは言え、とても寂しい気持ちになってしまった。だが、調子にのった私は、翌朝から白田さんが建てたという東側校舎の床板はずしにも取りかかり、仕事場の二階に貼るだけの量はついに確保することができた。
 校舎は、その後も段ボール箱を壊すように日に日に姿をなくしていった。教室から机がバラバラと転がり落ち、黒板はバリバリに砕かれ、手すりも漆喰の壁も格子窓も、あんなに大きな体育館すらも、あっけなく瓦礫と化した。
 まもなく、それらの床板は私の工房の二階に全て納まり、第二の役割を果たしはじめる。釘穴があいていたり、白い廊下の線が引かれたままだったりしているが、私にはどんなに高価な床よりも大切な床になる。
 張る作業をしながらふと思った。あの時私が、ちょっと恐くて痛い目にあったのは「自分を建ててくれた白田さんがやって来る翌朝に、きれいに簡単にはずした方がいいよ」という、校舎の粋な計らいだったのかも知れないと。

(平成13年5月 通信「ハチ蜜の森から」より)