西澤信雄さんと朝日町エコミュージアム

 先日、私の工房のわざと施した古い作りのことや、解体される廃校舎から集めてきた机やいすのこと、木造校舎で開催している白い紙ひこうき大会のこと。そんな話をしていて、西澤さんは最後にこうまとめた。「後退することもこの時代、革新なんだな。安藤君と話していて今日はいいことが分かったよ」西澤信雄さんは、いつもこんな調子の人だ。いつも誰かのお陰にしてしまう。絶対に自分を優等生にしない。いつでも同じ目線で会話してくれる。だから彼と話していると、いつも嬉しくなる。やる気が湧いてくる。

 西澤さんは、私の工房からさらに森の中に車で30分程入った所で「朝日鉱泉ナチュラリストの家」という山荘を経営している。私も蜜ロウソクだけでは生活できなかった頃、二夏アルバイトをさせていただいた。目の前には、朝日連峰の主峰大朝日岳。すぐ近くの朝日川を渡れば磐梯朝日国立公園に入る。ブナ林をはじめ、ここには日本一といわれる原生自然がある。
 西澤さんは、滋賀県で生まれ育ち、学生時代には世界中を旅してまわったという。そして昭和50年に、働いていた東京の仕事をやめ、敬子婦人と新婚でやってきて、風前のともしびだった朝日鉱泉宿を再建した。あれから27年。彼の目的は、朝日連峰の豊かな原生自然の保護。時代は、国が押し進める拡大造林事業による森林伐採の真只中。今でこそ自然と共生するのは、あたりまえな価値観になったが、開発と相反する自然保護活動に対して、当時の風当たりはきっと、とても強かったはずだ。まして東京からやってきて、「ナチュラリスト」という名前である。この言葉も、今でこそあたり前につかわれているが、27年前には、どれだけの人が理解できたか。相当おかしな人に思われたに違いない。
 
 西澤さんは自然保護活動のかたわら、地元の子供達を地元の自然をテーマに体験させる「朝日ナチュラリストクラブ」を20年も前から主宰してきた。私も特別講師を経て、スタッフとして活躍させていただいた。近頃は、蜜ロウソク作りのワークショップと活動日が重なってしまい、なかなか手伝いにいけないのだが、私のワークショップの基本は、まちがいなくここで培わせていただいたものだ。 西澤さんと知り合ってまもなくのこと。一本の録音テープをいただいた。その中には、亡くなった私のじいさんと西澤さんの会話が録音されていた。私のじいさんは、典型的な山で暮らしてきた人である。山のものを採り、狩りをし、炭焼きをし、冬にはかんじきやはけご、はく製を作った。その時代、山に住む人々は、みんなそんな生活をしており、あんまり良い響きには聞こえない「山衆」と呼ばれていた。カセットデッキから聞こえてくるじいさんの声は、とても楽しそうに聞こえた。山の事や熊打ちのことを、得意げに喋っていた。猫の泣き声やストーブに薪をくべる音まで聞こえてきた。西澤さんは、感嘆の「そうですか」を連発していた。感動した。驚いたのは、西澤さんはうちのじいさんだけでなく、多くの人から山村の暮らしぶりを聞きだしていたことだ。
 ふと、西澤さんはこの町に「手当て」に来てくれたのではないかと、思うようになった。

 近頃、時代は大きく手の平を返し、自然や田舎そして心を求める時代が始まった。しかし、田舎はまだ、あの時代の価値観を引きずってしまっている。いや、急にはぬぐいきれないのだ。新しいもの、都会的なもの、経済性がなによりのものさしだったあの高度経済成長時代。多くの人々が田舎を捨てた時代。「ここにいたら嫁さんももらえない」本当にそんな時代だった。田舎で元気だったのは、中心地か特別めずらしい観光地を持っている所だけだったろう。山や田畑を捨て、智恵や技を捨て、多くの文化も捨てた。時代がもう必要ないと言っていたのだ。うちでも、じいさんが使っていた山暮しの道具は、道路拡張に伴う家の取り壊しの時に、ほとんどを処分してしまった。価値が見出せなかったのだ。だが、後味の悪さは感じていた。私は、しばらく更地になったその場所を訪ねることができなかった。じいさんの家はじいさんが手作りしたものだった。
 「雪何メートル積もった?」「熊と遊んできたか」軽い挨拶のつもりのからかいが、山形市の高校へ下宿して通う私の胸に、少しずつ少しずつしこりを作っていた。あの頃は、古いもの、自然のものが価値のない恥ずかしいものだった。そして、時代に取り残されたような失望感が無気力感を産み出した。だから、地域らしさを捨て、田舎は、若者は、必死で新しいものを欲しがったのだ。私もロックバンドを組み、髪を赤く染め、オートバイを乗り回していた。「進んでいる。遅れている」そんな言い方があった。いくらでも進んでいる自分にしておきたかった。
こんなことを書くと「大袈裟」と、おっしゃる方もいるかも知れない。でも、田舎はあの経済優先の時代に、確かに大きな傷を負わされたのだ。特に東北地方の豪雪地帯の山村は重症である。時代はその生き方を否定していたのだから。そんな時代に、じいさん達「山衆」が、西澤さんに「うんうん」うなずきながら話を聞いてもらうことは、どれだけ心踊る事だったか。時代は相反する方へ向かっている時に、自分達の生き方を肯定してくれる人がいたのだから。しかも、誰も田舎を振り返られなかったあの時代、彼は地元の自然をテーマに地元の子ども相手に活動していたのである。西澤さんは、そうして田舎の傷を外側から癒す「手当て」を多くの人をからめ、地道に行ってくれていたのだ。
 そして平成元年、西澤さんはなにより大きな手立てをこの町に持ってきてくれた。地域らしさや地域らしさの誇りを取り戻すための「エコミュージアム」の手法である。エコミュージアムは、1960年代にフランスの博物館学者が新しい博物館として提唱したもの。町全体を博物館とし、自然、文化、産業などを歴史的に調査、研究し、現地で保存、育成する。そこに住む人は利用者であると同時に学芸員になる。住民が地域を見つめ直すことにより得ることのできた「誇れる資源」そして「誇らしさ」の蓄積は、多分野に活かされ、町作りに寄与していくという考え方である。
 西澤さんを先頭に「朝日町エコミュージアム研究会」がスタートした。はじめは、エコミュージアムそのものの研究。そして、朝日町の宝さがし(資源調査)。これまでさまざまな宝に光をあて、シンポジウムを開催したり、ガイドブックを作ってきた。宝を探すとそこには必ず名人がいて、知らない知識や知恵を、子ども達や一般町民に教えてくれた。異世代の交流も生まれた。なにより、意外な程この町には宝が眠っていた。私はとても嬉しくなり、実際、誇らしさを感じていた。行政もこの取り組みに呼応し、町作りにエコミュージアムの理念を取り入れた。そんな活動を15年近く。この町には多くの「宝」と知恵や技を持つ名人、宝を愛する人がいることが分かった。私の蜜ロウソクも、一つの宝として、工房は現地見学場所になっている。エコミュージアムの中では、聞かせてもらう自分と、自分の専門のことを聞いてもらえる自分がいる。前者も嬉しいことだが、後者はやっぱり嬉しいことだ。西澤さんに聞いてもらえた私のじいさんの気持ちが今さらながらよく分かる。
 朝日町エコミュージアムは、近頃ついに博物館の形を見せ、いよいよ大きく動き始めた。現地見学場所が増え、そこを案内する「エコミュージアムガイド」が現れた。多くの名人も協力して下さる。町内だけではなく、外からの利用者も増え始めた。私たち研究会は一般有志を含め「NPO朝日町エコミュージアム協会」となり、エコミュージアム運動の企画や支援によりいっそう力を入れはじめた。町は、多額な予算をかけ町民が町を学ぶための総合施設としてエコミュージアムコアセンター「創遊館」を作り、その核となるエコルームの業務を私たち民間のNPOに託した。エコミュージアム運動という、建物作りではない見えないものに予算を投じられる町の英断である。民間と行政のよりよいパートナーシップがエコミュージアム運動を動かしはじめている。多くの誇らしい宝が見つかった朝日町エコミュージアムは、この夏一つの花を咲かすことができた。早稲田大学外国人留学生の二泊三日ホームステイ研修を受け入れることができたのである。彼らの目的は、日本の農山村の伝統文化を学ぶこと。案内人や名人が大いに活躍し、町民有志がホームステイを受け入れ、町の多くの子供達が共に朝日町を学んだ。このうえない「国際交流」をこの町は得ることができたのである。きっとこれからも、宝を探し、学び、大切にすることをやめなければ、多分野に花を咲かせ、いつかはたくさんの実もつけられるようになるのだと思う。
 それは、ハチミツの採れるトチノキの成長とよく似ている。芽を出してもすぐに花を咲かせるのではなくて、地道に根を伸ばし、幹を太らし、背を伸ばす。低い枝は雪解けの雪に容赦なくへし折られる。そして15年後、ついにはじめての花を一つ二つつけられる。まだまだ蜜の量が少ないので蜂達には見向きもされない。でも、毎年幹を太らせ、花を増やし、やがて少しの実をつけられるようになる。50年後には一丁前に蜜を出し、実を沢山つけられるようになる。100年後には、一日一斗の蜜を出すようになる。多くの虫や小動物や人間までも養ってくれるのだ。
 ふと、私は思った。「エコミュージアムは田舎が経済優先の時代に受けた傷を、自分達で「自己治癒」させるための偉大なシステム(博物館)ではないか」と。傷は、どんなにがんばっても「手当て」だけでは完全に治せない。私たち自らが治そうとしなければならないのである。それが、本当に求められているエコミュージアムの姿なのだと思う。
 花を咲かせられるまで成長した朝日町エコミュージアム。この春、私はとても迷った末に「NPO朝日町エコミュージアム協会」の理事長を引き受けた。

 西澤信雄さんは、いつもこんな調子の人だ。どんなことも誰かのお陰にしてしまう。けっして自分を優等生にしない。いつでも同じ目線で会話してくれる。だから彼と話していると、いつも嬉しくなる。やる気が湧いてくる。西澤さんはありがたい「手当て」の人である。

※この夏、国は朝日連峰に国内最大級の森林生態系保護地域設置計画を提案しました。また、県が計画中の朝日川砂防堰堤は、魚が登れるスリット式とし、私が要望していたトチノキの保残については、保残はもちろん堰堤周辺に植栽されることになりました。

(平成14年11月通信「ハチ蜜の森から」No.23より抜粋)