大谷北野天満宮の祟り
振り返ると、はじまりと思える出来事がありました。
7年前、今は亡き愛犬サリーと裏山に散歩に出かけた時のことです。いつものように、私は原付きバイクで追いかけていました。すると、山に登る小さな脇道を見つけたのです。(私は妻の家に住んでいるので、まだ知らない所がたくさんあるのです)坂を登り上げると、小さなかわいらしい社がありました。とびらに三日月と丸いお日さまの穴が彫り込まれ、背後の松の御神木は、まっすぐ天高く幹をそびえさせていました。軽く柏手を打って後ろを振り返ると、田んぼに囲まれた広々とした大谷の小さな集落が望めました。柴草に腰かけ、ポケットに入れてきたあったかい缶コーヒーを開けて、晩秋には稀な、長閑な時間を愛犬と過ごすことができました。
その夜、私は大変なことに気がつきました。なんと空き缶を忘れてきてしまったのです。「まずい!」。ぞっとしてしまいました。 実は子どもの頃、神様に祟られた経験があったのです。5円のみかんガムを買いたくて、悪ガキ友達とお稲荷様のさい銭箱から、小枝で五円玉を何枚かいただき、目的を叶えた時のことでした。その小さな成功に喜び合った翌日。申し合わせたように、三人ともそれぞれに痛い目にあってしまったのです。坂道を自転車で転んで体じゅう擦りむいた者、父親に兄弟喧嘩を叱られ殴られ青痣の顔になった者、学校でマンガが見つかって先生にこっびどく叱られた者。その時私たちは、神様に悪いことをすると祟られることを身を持って学習したのでした。それは、いまだに小さなトラウマとして私の中に残っているのです。(笑)
翌朝そんなことを思い出しながら慌てて空き缶をとりに行き、「ごめんなさい。祟らないで下さい」と、柏手を二つ余計に打って社をあとにしました。
そして、ほっとした帰り道のことでした。
「とんとっ たたた と とった とん …」
安心した私は、きっとうれしくなったのか、空き缶を持つ左手の中指で軽快なリズムを叩きはじめたのです。それが、我ながら愉快でめずらしいリズムで、結局家に着くまで面白くてずっと続けてやってました。なんだか祭り囃子の太鼓のように感じられ、もしかしてあの小さくてさみしそうな社の神様は、お祭りをしてもらいたいのかなと思ってしまったほどです。その空き缶は捨てられず、今でも小屋の棚に置いてあります。幸いなことに祟りはありませんでした。
あとで分かったのですが、あの社こそが大谷四天神の一つ、菅原道真公を祀った「大谷北野天満宮」だったのです。四つの天神社がある現在私の住む朝日町大谷地区は、昔むかしの平安時代、時の右大臣菅原道真公が太宰府に左遷させられた折、一人のお嬢様の一統が最上川をのぼり辿り着いた地と云われております…。しかしこれは、残念ながら裏づけとなるものが何も見つからず、地元ですら信憑性のない話とされています。
地元歴史研究家の間で、信憑性があると推測されているのは系図説です。大谷には、多くの白田姓の方がいらっしゃいますが、白田家に残された系図によれば、道真公の五代目「高標」の五男「孝安」が出羽の国の役人となり山形に来て、その何代かあとの子孫が大谷に住み着き、のちに地名だった白田に姓を変えたとされています。しかし、地元以外の歴史研究家たちの間では、菅原家の系図上、高標に五男は存在しないこと、そして系図は都合のいいように改ざんされがちで、あてにならないものと、やはり信憑性にかける話とされています。
しかしここ大谷地区には、四天神をはじめ、その疑わしさを払拭させる社寺や石碑、行事、風習が確かにたくさん残っています。たった200戸程の、どこにでもある山里の小さな集落の血が、時の右大臣であり平安の都を襲った日本を代表する怨霊であり、現代の学問の神様である「菅原道真」につながっているかもしれないのです。そして平安京にも…。
前置きが長くなってしまいましたが、高校時代日本史11点をとるほど、歴史嫌いだった私は、近年このロマンのある話にすっかりはまってしまったというわけなのです。
私を着実に歴史好きにさせた方は、すぐ近くに住んでいらっしゃる歴史研究家の堀敬太郎さんです。堀さんは、地元歴史研究会「風和会」の事務局と、「朝日町エコミュージアム案内人の会」の代表を務めていらっしゃいます。毎年春に行っている集落あげての大谷大堰の普請(整備)の時など、堀さんは新参者の私に大谷地区の歴史を少しずつひも解いて下さったのでした。その大堰もその昔、道真公の子孫にあたる「白田家」が、村民の生活を楽にしようと、広大な水田を作るための堰を、私財を投げ打って開削したもので、大谷の歴史を語る象徴となっています。しかし歴史嫌いな私は、当時「スガワラ・ミチザネって誰?」のレベルです。相づちを打つだけで精一杯でした。
その後、私のほうからうるさい程質問をするようになったのにはもう一つ理由がありました。日本の蜜ロウソクの歴史に道真が関与していたのです。奈良時代から遣唐使により仏教の御灯明として中国から輸入され使われていたものを、道真が遣唐使を廃止したために、幻のロウソクとなってしまっていたのです。(日本の蜜蜂では産業を起こせる程原料の巣は収穫できず)
思いがけず繋がってしまった私は、じわじわと大谷の歴史を、そしていにしえの日本を知りたい欲求にかられていったというわけです。
近頃、その勢いは自分でも驚くほどです。小学生向けのマンガの歴史書にはじまり、話題の「逆接日本史」。それから、大嫌いだった古典文学も読みました。なぜなら、系図によると、「更級日記」の作者の菅原高標の女(むすめ)は、大谷白田家の祖「孝安」の姉にあたるからです。平安時代後期の生活ぶりがうかがえ、いにしえの人の心も現代と通じるものだったことが嬉しく、味をしめた私は、枕草子、徒然草、今昔物語、方丈記、そして源氏物語(まだ中程)と読みまくりました。やがて、当時の生活の基になっていた陰明五行の考えに惹かれるようになり、枕元には、時代小説とともに、陰明道や修験道の本も、重ねておくようになりました。そして、映画「陰明師」。大袈裟と思いつつも、大好きな狂言師野村萬斎が演じる安部野晴明にも惹かれてしまいました。
関西出張の時には、明治の時代に消され昭和21年に再興された福井の陰明道宗家・天社土御門神道本庁や京都の北野天満宮、晴明神社、そしてかつての陰明師たちが天文観測を行った渾天儀の台石が残る土御門屋敷跡の圓光寺まで訪ねてしまいました。これにも理由があるのです。堀さんが、かつて大谷の寺小屋の先生が幕末頃に京都に陰明道を学びに行った歴史があると教えて下さったのです。確かに、大谷は碁盤の目のように辻が多く、社寺も陰明五行の風水に基づいて設置された小京都づくりです。陰明の学を持っている人がいて当然とはいえ、もしかしたら安部野晴明の子孫で格式のある土御門家に学びに行ったのではと想像が膨らみ、昂る気持ちを押さえきれなくなってしまっていたのです。
私は、いつのまにか節供の行事やお祭り、和歌や俳句、邦楽、和食、まじない、相撲、なんとお屋敷のお坪までも、すっかり和の民俗性、芸術性、そして心に惹かれてしまいました。それらの中に残された、陰明五行を見つける度にわくわくしてしまうのです。
仲間と主催したホタル観察会では、流れては消えゆく蛍光に、平安のゆるやかな時と雅びを勝手に感じ取り。時おりいただく晩酌は、すっかり瓶子と盃になってしまいました。さらに、神話や陰明五行を想像させる神社も大好きになり、分厚い神社辞典まで買ってしまいました。かつて、虫を見つける度に昆虫図鑑をめくったように、今は知らない名前の神社や石碑を見つける度にめくる始末です。
そして、私は神聖な御灯明製造業であります。工房には、ついに小さな神棚を設置しました。職人の工場には、さりげなく神棚があることが、昔から職人にあこがれていた一つの魅力でもあったのです。しかし、まだまだインテリアの域を抜けきらないのも事実で、この半端さがこれまた祟りを呼びそうで少々心配です。
なんと表現したらよいか。大谷の歴史を学ぶうちに、どっぷり“いにしえの日本ごっこ”にはまってしまったという感じなのです。
何年かぶりに雪のない今年の初詣は、家族と大谷の四天神をまわってみました。久しぶりにたずねた北の天満宮からは、大谷の集落が新年の日ざしをたっぷり受けて、静かに安堵しているふうに見えました。
ふと、思いました。
「歴史嫌いだった私が、こんなに勉強させられて、本を読まされて、もしかしたらこれが大谷北野天満の祟りなのでは」と。(笑)
最後に、京都を訪ねて大きな収穫がありましたのでご報告致します。
北野天満宮を訪ねた折、元宮司で現在ガイドをなさっている浅井輿四郎さんに、偶然お声かけいただきお話することができました。驚くことに、道真の一人のお嬢様が大谷に来たという説について、こうお答え下さったのです。
「充分にありえる話。なぜなら、道真にはたくさんの側室がいて、子どもが23人もいた。左遷の折、本妻の子ども以外は、東北地方を中心に流した歴史がある」と。
どうやら大谷北野天満宮の祟りは、これからも続きそうです。
「とんとっ たたた と とった とん」。
参考文献 『菅原道真』小学館
『大谷の菅原一族』塚本天英
『大谷郷』同編集委員会発行 ほか
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