〜阪神淡路大震災被災地キャンドル支援〜 リトルライトネットワーク活動 10年をふりかえって 「箱は壊れてたけど、蜜ロウソクは無事でした」。10年前、私の製造する蜜ロウソクが、阪神淡路大震災の被災地西宮市の郵便局で被災した。 電話を下さったそのお客様は、手に入った熱帯魚用ヒーター3本で、10日ぶりにぬるい風呂に入ったことや、届いた私の蜜ロウソクを灯して家族でほっとする夜を過ごせたこと、そして周辺の悲惨な状況について教えて下さった。まもなく、偶然同じ日に出荷していた神戸市にお住まいのお客様からも「主人があと三分早く出勤していたら、倒れた阪神高速で犠牲になってたはず」と、便りが届いた。 (なにかできないだろうか…) 以後、テレビや新聞が伝える悲惨な状況を見るたび、後ろ髪を引かれる思いがした。 やがて被災者の心のケアが問題視され始め、友人と思案し、被災地のクリスマスに多くの人の手作りロウソクを贈ることを思いついた。材料は、神社や寺院、結婚式場等で役目を終えたロウソク。一本の糸の両端を、溶かしたロウに浸して乾かす作業を繰り返すと、年輪のようにロウが付着する。やがて、一重一重に思いをこめたかわいらしいヌンチャクのような双子のロウソクができ上がる。 一本は作った人が、そしてもう一本は被災地の子供達が、気負うことなく、互いを思いながら同じイブの夜に灯しあう。ロウソクの包み紙の裏には、励ましのメッセージや絵を書いた。県内各地でおよそ600人の方が参加下さり800対のロウソクができ上がった。「山形でも多くの人が被災地のことを思っている」そんな事実を伝えたかった。 ロウソクを届けに現地に出かけ、夜明けのホテルから見下ろした被災地は、ブルーシートで一面青い色をしていた。一年近く経つとはいえ、その傷跡は凄まじかった。大きくひび割れたマンション、崩れたままの石垣、盛り上がった 道路。そこら中の空き地は「悲しい現場」だったことを物語っていた。 伊丹市で、ネイチャーゲームの会の代表をなさっている森信子さんが、私の願いを叶えて下さり、事前にロウソクをもらって下さる団体を幾つも探して下さっていた。最初に案内していただいた小学校には、8人の子どもの遺影が飾られてあった。歓迎してくれた校長先生が、悲惨な状況だったことを静かに淡々と話して下さった。帰り際、子供達が遊ぶ校庭の、背後にそびえ立つ高速道路の残骸が「本当のことだぞ」と訴えかけてきた。まるで頭を殴られたような衝撃を感じた。自分は浮かれたサンタクロース気分だったのではないか。一片のうがった気持ちが、とても汚らしく思え、その後も訪ねる先々で受けるあたたかなもてなしが申し訳なかった。 夜、森さんが仲間の皆さんと開いて下さった歓迎会で、そのことを素直に話すと、皆さんは「それでもありがたいんだ」と逆に励まして下さった。心のもやもやが、さーっと晴れたように感じた。被災地は、全体が優しさのオーラで包まれているようだった。大げさでなく、ずっとそこに居たいとさえ思えた。 あれから10年。小さな灯りで和の輪を広げるこの「リトルライトネットワーク」活動は、途中で被災地各地の追悼のつどい用のロウソク制作に変わったが、県内各地そして宮城県にもその輪は広がり、多くの皆さんの力で、毎年2万本前後の手作りロウソクを贈り続けることができた。「1.17 KOBE」の火文字で有名な神戸市三ノ宮の「1.17のつどい」の初回に灯された6432本(当時の犠牲者数)のロウソクも、このネットワークで作らせていただいたものだ。 また、有志たちと被災地5市で双子ロウソク作り会を開催したり、県内では巡回震災写真展、神戸を歌うシンガー‘おーまきちまき’さんのコンサート、悲惨な震災体験が綴られた本「黒い虹(あしなが育英会)」の朗読劇、被災地に咲いたひまわりの種配付、全国を走った神戸市民ランナーの歓迎点灯会なども開催することができた。共催下さった方々、協力下さった方々、協賛下さった方々、ロウソクを提供下さった方々、報道して下さったマスコミ各社、そして共に活動してくれた仲間達と、実に多くの人々に支えていただいた。振り返れば感謝の念でいっぱいになる。 嬉しいことがある。本県や近県で地震があると「大丈夫か」と被災地からメールや電話をいただくのだ。痛みを知る人々がゆえに持つそんな暖かな思いやりの気持ちは、10年を節目に様々な形で被災地から全国に情報発信されている。なかなか災害を身近に感じられない私たちにとって、それはとてもありがたいことだ。そんな気持ちを無駄にすることがないよう、災害をもっともっと身近に意識して生活していこうと思っている。 (平成17年1月山形新聞「提言」掲載)
神戸市「1.17のつどい」代表 中島正義さん来県 |