父のこと 

 「悪いけど、デボネア貸してくれないか?」
「あー。いくらでも使え」
可能な限りさりげなくお願いした私に、病床の父は、私の予想と裏腹に微かなとまどいすら見せずに優しくうなずいてくれた。
 私にはどうしても解決しておきたかったことがあった。父が生きている間に。
 昨年の夏のこと。
 神戸市の「1.17つどい(鎮魂式)」実行委員長の中島正義さんが、県内各地でロウソクの製作協力をしているボランティア団体を表敬訪問して下さることになった。一連のまとめ役をしていた私は、案内しながら同行させていただくことになった。 
 父から車を借りる絶好のチャンスだった。普段私が乗っているおんぼろな軽自動車では心もとないことを、うまく理由にすることができる。入院している父にお願いして、父の宝物の、そして私の大嫌いだった三菱の最上級自動車「デボネア」を貸してもらうことにした。
 米沢市生まれの父は、若い頃朝日川のダム建設作業員として朝日町に滞在し、母と知り合った。石原裕次郎を気取り、かっこつけるのが得意で、かなりな荒くれ者だったらしい。筋の通らないことは大嫌いだったから、そんなことが理由で喧嘩ばかりしていたという。子どもの頃、父を知る大人達に「お前の父ちゃんは恐い人だった」と、よく聞かされた。いつか息子の私たちもやっつけられてしまうのではと、本気で心配したこともあった。「男だったら筋通せ。弱いものいじめはするな。自分で判断しろ」が、父が息子三兄弟に教える生き方だった。反面、気風の良さも同じくらいの評価があり、困った時に助けてもらった話や、飲み屋でおごってもらった話などもよく聞かされた。
 小学生の頃、父と二人で出かけた時に、欲しかったスキーのゴーグルを内緒で買ってもらったことがあった。前に一度だけ懇願したことがあったが、家庭の財政事情を考えると、子どもながらに遠慮していたものだった。それは嬉しかった。隠しながら、大切に、大切に使った。
 父は子ども三人が生まれてから、祖父が山仕事の一つとしてやっていた養蜂に目をつけ、生業にしようと苦労を重ねた。貯えもなくなり、よそ者の父に金銭的に支援して下さる人もなく、生活は大変だったらしい。足りない生活費は、養蜂の仕事が少ない冬場に出稼ぎへ行ったり、母はラジオ部品のハンダ付けの内職をしてまかなっていた。
 ハチミツで味付けした「焼肉のたれ」を売りに、冬場だけの焼き肉居酒屋「はちや」をやっていたことがあった。兄も私も、毎日学校帰りに焼き鳥刺しを手伝った。まだ小さかった弟は、両親のいない夜を我慢した。一年目。居酒屋には電話がなかったから、客にタクシーを呼ぶ事ができなかった。父は、私たちのトランシーバーを使って、自宅で留守番している私たちに指令を送って来た。
「タクシーを呼べ」
「了解!」
中学生の兄はその度に電話していた。
 家は小さな借家。車は小さな軽自動車。どっぷり貧乏だったにちがいないが、私たち子どももそんな生活に参加型で楽しんでいたような気がする。悪い思い出はいっさいない。
 やがて私も、下宿して通っていた山形市の高校を卒業すると、家に帰り養蜂を手伝うようになった。そして200群も飼育する大型養蜂に至ることができた。家も国道沿いの一等地に大きく新築した。小さな借家で片寄せあって暮らしてきた私には、フローリングの床とベッドの大きな一人部屋は、夢のようだった。
 だが、その頃から父と、少しずつ仕事や生活の考え方に違いを感じるようになっていた。私が、環境問題や世界の貧困問題に必要以上にはまっていたことも大きな要因だったかも知れない。少しでも贅沢な暮らしは許せなかった。それに、前の暮らしとの大きな違いに、なにか物足りなさも感じはじめていたのだと思う。
 そしてついに、私と両親とのけんかが絶えない生活がはじまった。実は、私の結婚問題が直接的な原因だった。お互い後継ぎだったから困難を極めていたのだ。妻の母が一人暮らしになってしまうので、とりあえずそちらに住みたいと願ったものだから、「結婚は許すが養蜂は継がせられない」と父の答えが返ってきた。
 私が抜けてしまえば、増やしたミツバチの世話や新築したローンの支払いが困難になることは分かっていたから、答えなんて出しようがなかった。私と両親は毎日のように口論ばかりしていた。
 答えの出ない口論の末のもんもんは、何かにぶつけないと納まらなかった。ハチミツ収穫の現場で一輪車をひっくり返して帰って来たり、ストーブを蹴り倒して壊したり、ひどい時には知り合いの飲食店で口論になり、生ビールのジョッキを床に叩き付けたこともあった。私は鬼のように、いろんなものにあたっていた。
 そして、父がほんの少しグレードの高い車に買い替えたばかりのこと。こともあろうか、口論のはずみで、今度はその車のボンネットを蹴りつけて、少し凹ませてしまったのだ。振り返ると、その頃の私はなにかに取り憑かれたように自分らしさを失っていた。
 それからまもなくのこと。父は、「あや」がついたからと、今度はなんと三菱の最上級自動車「デボネア」を購入した。この車には、当時はまだめずらしいカーナビや、エンジンを離れた場所からかける装置がついていた。ソファーのような運転席に座れば、いすが自動的に好位置に移動し、ハンドルも下りてきた。高級塗装は燦然と輝いていた。ガレージには自動シャッターまで取り付けられた。
 父がついに性格の悪い「成金」になったように思え軽蔑した。そして私は、「デボネア」を絶対に運転しないことを大きく宣言した。
 その後、結婚問題は偶然手がけ始めていた蜜ロウソクを製造しながら、養蜂にも手伝いに来ることでまとまった。誰も蜜ロウソクを生業にできるとは思っていなかったから、正確には私の気持ちだけに整理がついたと言ったほうがいいだろう。
 心に誓った。結婚生活がどんなに貧乏になっても絶対に父に頼らないことを。実際、父はことあるごとに働いた以上の金を渡そうとしてきたが、私はかたくなに断っていた。無理に結婚してしまった申し訳なさもあった。
 おかげで両親なみではないが、貧乏の苦労を少しだけ知ることができた。ロウソクを買っていただける喜びや、子どもに対する親心も知った。根っからの「ありがた志向」になった。私は、だんだん父が差し出すチップを、渋々だがもらえるようになっていた。
 いつだったか、父がデボネアを買うことになったエピソードを母に聞かされた。うちに来ていたセールスマンが癌でまもなく死ぬことを知り、彼の成績をいくらでも上げてやりたくて、思い切って買ったのだそうだ。なんとも父らしい。そういえば、普段は母の小さな車を乗り、「ここぞ」という時にしかデボネアは乗っていなかった。
 晩年、父は背広を着込んで、助手席に母を乗せ、よく旅行に出かけた。ふるさとの小野川温泉はもちろん、会津、金沢、京都…。父との思い出をいっぱい作ってくれたこの車は、母にとっても大切な宝物だから、未だにガレージに残されたままだ。
 以前にラジオを聞いていたら、誰だったか小説家が出ていて、手作りの高級万年筆をついに手に入れた話をしていた。その万年筆は若い頃から憧れていたが、文才も財力も苦労の数も、まだまだその万年筆とはつり合わないから買わなかったと。分不相応だと思っていた。と。
 ふと、父のデボネアと重なった。きっとデボネアは、がんばった自分へのかっこいいご褒美であり印だったのだろう。そんなことに、私も少しだけ苦労を知って気付くことができた。申し訳なく思っていた。でも、なかなかそんな思いは何年たっても伝えられない。あやふやな結末になってしまっていた。私は、デボネアを運転することで、そんな思いを父に伝えたかったのだ。
 車中、中島さんに、そんなことを話しながら、空港にお送りし、案内は無事終了した。別れ際に「宝物の車に乗せてくれてありがとう」と、優しく言って下さった。

 まもなく、小春日和な秋の日。
最後の入院となる父を病院へ送り届けた。
帰り際、父はポケットから裸の一万円札を取り出して、下の方からさっと、かっこつけて手渡して来た。
「とっておけ」
「いいよ」
「いいから」
「サンキュ」
素直に受け取った。
かっこつけた父から受け取る最後のチップになった。

 


 父光男は、C型肝炎をこじらせ昨年の年明けに69才で亡くなりました。50代後半とも思えた若づくりの父が、入院とともに60代、70代、80代の容貌に変わり、最後はミイラのようでした。腹部だけは、腹水で臨月の妊婦のようでした。苦しさから解放させるために、何度か水を抜きましたが、それは命のエキスだったのでつらいものがありました。生体肝移植をしようと健康体の弟が頑張りましたが、高齢と体力不足で叶いませんでした。母は三ヶ月間病院の簡易ベッドで泊まり込みました。
 そして最後は、突然静脈瘤が破れ、血を吐き続けながら、家族の感謝の言葉も聞かずに亡くなりました。
 C型肝炎ウィルスの感染は、非加熱血液製剤の使用や、かつて行われていた予防接種注射の回し打ちなどの医療行為を主に、全国に広まったものです。(唾液など体液での感染は極めて稀だそうです)現在も200万人以上の感染者がいます。
 父は後者のほうだったと思われます。予測できなかった事とはいえ、国が薦めた医療行為によって命を縮めたことにおそらく間違いはありません。父も家族も悔しさを残したままの最後となりました。
 せめて、もう少しこの病気について知識を持っていたら無理をさせなかったのにと悔やまれます。肝臓は「沈黙の臓器」と言われ、ぎりぎりになるまで症状を表さず、表れる頃には、そうとう悪くなってしまっているのです。
 国は、父のような感染者に対しても、最低限の配慮を施して欲しいものです。たとえば、家族に病気の知識を確実に伝えること、検診は定期的に通知を出すなどして強く促すこと、インターフェロンや末期治療など高額になる医療費をさらに軽減すること等を、前向きに取り組んでいただきたいです。感染者は保険にも入れないのです。
 生前は、多くのみな様にお世話になりました。心から御礼申し上げます。養蜂の仕事は、これまでどおり継いでくれている弟をサポートしながら大切にしていこうと思っております。