愛情こめるものづくり

 物づくりを業とする者として、感じていることがある。
 身の回りから愛情の込められた「物」が、極端に少なくなってしまったことが、この国から「優しさ」を奪ってしまった一因ではないかと。子どもたちの自殺やいじめ。連日のように起きる殺人事件や家庭内暴力。使い捨て消費で進まない二酸化炭素の削減。「命」の問題も「環境」の問題も、実は共通しているのではないか。
 今、身の回りの衣食住にかかわる「物」をあらためて眺めると、ほとんどが機械の量産で作られたものだ。華やかでも無機質さを感じるそれらの物には「命」のつながりや誰かの「愛情」が見えにくい。どこでどうやって、誰の命を頂いて、誰がどんな思いで作ったのか。想像する余地はなく、感謝の気持ちもわかない。愛着は生まれにくく、生まれても長続きはしない。だから、簡単に捨てたり壊したり、食べ残したりしてしまう。
 私の工場(こうば)は、作業台や棚など、多くの古い家具に囲まれている。地元の木造校舎が解体されるたびに頂いたもので、決して高級な作りではないが、ちょっとしたデザインや、面取り仕上げにも作り手の思いが感じられる。それに、長年多くの子どもたちが使ってきた歴史も、いたずら書きや角の丸みなどに表れている。用務員さんが丁寧に直した跡も見られる。私は日々、たまらないぬくもりを感じている。
 それらを集め始めたのには、理由があった。亡くなった祖父の家が、道路拡張で取り壊しになった時の悲しさだ。建物は祖父自身の手作りだった。山暮らしで使った得体(えたい)の知れない道具の数々も、ほとんどを一緒に処分してしまった。後になって気付いたその悲しさを、穴埋めするかのように、私は古いものやぬくもりを感じるものを集めるようになっていた。
 いつしか、ぬくもりを感じる物というのは、決して優れた物ではなく、古いものに限るものでもなく、作り手、使い手の愛情を感じられるものであることが分かった。そして、それらを屍(しかばね)にして飾るのではなく、使うことで愛情を日々受け取ることができるのだ。私の愛情も新たに染み込み、掛け替えのない大切な宝物となっている。
 昔はさらに、日用品や着るものさえも家族の手作りのものが多かった。学校に持たされたぞうきん一枚とて、愛情を込めて作ってくれたものだったから、意識しなくとも大切に使った気がする。愛情の証であるぬくもりある物に囲まれた生活は、とても居心地の良いものだったに違いない。そして、受け取った愛情の分だけ、他の人や物にも、優しい気持ちをおすそ分けできていたのではないか。
 もちろんわが家もそうだが、現代の家庭の中で、家族のために、作る、直すなどの手作りの愛情行為は、どれだけ残っているだろうか。ほとんどは、お金を出して解決してしまっている。そのような環境の中で子どもたちは、お金の価値は分かっても、愛情はわずかしか感じ取れていないのではないか。もしかしたら、家族にも無機質さを感じているかもしれない。その結果、命すらも簡単に捨てたり、傷つけたり、奪ったりできる人が育っているのではないか。大げさだろうか。
 少々高くても、誰かが愛情を込めて作った物を大切に使うこと。手間暇は掛かるが、愛情のある物を誰かのために作ること。そんなことを心掛けて、暮らしにも、私の業とする製造にも少しでも反映させていかなければと思っている。

(2008年3月 河北新報「座標」掲載 )