被災地とエコミュージアム

 震災後、ガソリンが手に入り、はじめてボランティアに駆けつけた被災地が石巻だった。町じゅうがグチャグチャ。憧れの『サイボーグ009』の像達も泥まみれで倒されていた。雪の降る中、専修大学5号棟前のボランティアセンターで即席のチームを作り、がれき撤去にたずねたお宅は、奥さん一人を残して家族全員が津波で流されていた。悲惨以外のなにものでもなく、全員ただ黙々と作業をこなした。よそ者の私でさえトラウマになりそうな光景なのに、なにもかも失った被災者の喪失感は計り知れない。
 その後、縁があって主宰するキャンドルリンクネットワークの仲間と市内の被災地2ヵ所に関わらせていただいた。 
 一ヵ所は市北部の雄勝町。ここは地元で採れる雄勝石を材料にした硯(すずり)や、東京駅の屋根材にも使われているスレートの一大生産地だ。海沿いに広がるこの町は9割の建物が流失し、4300人のうち250人が犠牲となった。仮設住宅は500人分しか設置できなかったためほとんどの住民は町外にバラバラに避難している。40人いた硯職人も二人が亡くなり、ほとんどの方が町外に避難している。道具も家とともに流されたため、現在は仮設共同作業場で数人の方がかろうじて仕事を進めている状況だ。さらに雄勝石の採掘業者も撤退し材料入手も困難となっている。私はここで二度、雄勝石の燭台づくりに合わせて蜜ロウソク作りの体験会を開かせていただいた。蜜蝋の黄色に雄勝石の優しい黒はとても相性がいいのだ。
 もう一ヵ所は、住吉町にある石巻惣鎮守の大島神社。川縁には石巻の名前の由来となった巻石がある。ここは、社殿の被害は免れたものの、これからかさ上げされる堤防工事により、昔の面影はまもなく無くなってしまう。東北神道青年会の主催する思い出作りのイベントに招かれ、みんなの作った蜜ロウソクで境内を優しい灯りで包むことができた。
 以来、ずーっと、エコミュージアムは被災地に寄与できないだろうかと考えていた。
 そして先月、同じ思いを持つ日本エコミュージアム研究会の吉兼会長の働きかけで、石巻市の観光シンポジウムに参加させていただいた。奇しくも会場はボラセンのあった専修大学5号棟。
 吉兼氏の観光の動向とエコミュージアムの概要を伝える講演の後、私から朝日町エコミュージアムの具体的な活動についてお話させていただいた。漠然とだが、高度経済成長期で傷ついたわが町「朝日町」のアイデンティティーを、エコミュージアムが取り戻してくれたように、震災で傷ついた被災地にもエコミュージアムは有効なのではと考えている。
 それには、朝日町エコミュージアムが大切にしているキーワード「住民ひとり一人が学芸員」の方法が大切なポイントとなる。地域の様々な宝(自然・文化・歴史・産業などの有形無形の資源)について、専門学芸員や教育者が住民に教えるのではなく、その宝に関わる住民の皆さんに教わり、文章化や催しなど博物館的な調査・普及活動を共に行い、地域住民みんなで共有するのである。教育委員会や大学などが培っていた学術的なこととあいまって、宝はさらに魅力あるものに磨かれる。さらに、明らかにされた宝を訪れる観光者への説明も、有料で住民の皆さんにお願いする。朝日町では25年の間に、様々な宝について関わる多くの地域住民とともに明らかにし、15冊の小冊子を作ることができた。その小冊子を開けばどれも朝日町民が話しかけてくる。
 これらの参加型の取り組みにより、吉兼氏も仰っていた被災地の記憶の井戸を掘ることになり、様々な宝は、確実に住民の心の財産になるとともに、地域らしさを失わずに未来の町づくりへ活かせることになる。それは観光者にとっての「魅力」にもなるし、なにより、震災で希薄となった住民と地域の絆を強くし、住民流失を防ぐ可能性もある。
 シンポジウム後半のワークショップでは、専修大学の先生の指導で「オリジナル街マップを考えよう」と、住民の皆さんがグループに分かれてKJ法による作業が行われたのだが、大切に心にしまっていた記憶が、地図にみごとに散りばめられた。参加者の皆さんの活き活きとした作業風景はとても印象的だった。
 アイデンティティーを失わず、地域らしさが活かされる町づくりのために、こつこつとしたエコミュージアムの活動は、きっと少しずつしっかりと被災地の力になれることを信じている。


(日本エコミュージアム研究会メルマガ3月号掲載)
参考サイト
キャンドルリンクネットワーク

朝日町エコミュージアム

日本エコミュージアム研究会


ハチ蜜の森キャンドル