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真木山城跡 |
大谷集落の南西方向に標高247.5mの真木山がある。大江、伊達、最上の三勢力が争う戦国時代、ここは真木山城とよばれた城であり、東方にある秋葉山楯、北東の位置にある猿田楯とともに敵からの攻撃に備えた。天正12年(1584)血縁関係にあった大江高基が最上義光により滅ぼされた時、城主大谷彦次郎元秀は平塩池之坊に婿養子として亡命。家臣達は農民となり大谷党を組織し時勢の訪れを待ち続けた。 |
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昭和新田遺跡 |
昭和新田遺跡は秋葉山の北側、粧坂集落より西方に200mほど入った所にある。大谷川支流の沢に接し、自然堤防上に集落が確認された。遺物としては、縄文土器や石器、そして平安時代の須恵器、土師器などが出土し、また柱穴、溝跡などが確認されている。(写真は秋葉山北側の日光山) |
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白山神社 |
白山神社は承和7年(840)、加賀の白山権現より勘定したと伝えられている。その後、大江家や最上家より社領の安堵を受け、慶安2年(1649)徳川将軍より19石4斗余のご朱印地をいただいている。もとは村の中央にあったが、小学校と隣接していたため終戦後に進駐軍より命令され解体。昭和25年に現在地に再建した。旧大谷小学校校門先のヒバの木は、白山神社本殿跡に植えられた記念樹である。 |
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南蔵院 |
南蔵院の系図によると、初代玄長坊は、室町時代の宝徳2年(1450)生まれで文明17年(1485)36歳で死亡している。4代と7代が南蔵院を名のり、10代以降は幕末まで世襲、代々白山神社の別当を務めた家柄である。白山権現の本尊である十一面観世音菩薩像(朝日町有形文化財)が所蔵されている。 |
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風神祭 |
立春から数えて210日目。台風などの風災害を鎮め、豊作を祈る祭りが風祭である。8月31日に開催される大谷風神祭は、250年前の宝暦年間に始めたといわれ、村の祭り行事では最も賑やかである。各家々では田楽提灯を門口に立て、御神輿の通る道筋に盛り砂をする。行列は代々神楽が先導し、御神輿を中心に村役、田楽提灯、獅子踊り、各地区の屋台が続き2時間かけて村中を巡行する。 |
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大谷四天神 |
大谷地区には、西の天満宮、北野天満宮、高木天満宮、峯壇天満宮の四つの天神様があり、古くから村人の崇拝を受けてきた。白田内記家・外記家は、菅原道真の子孫であるといわれ、そのため代々天神信仰が厚く、大谷の四天神は白田一族と関わりのある人が建立したといわれている。(写真は峯壇天満宮・西の天満宮は白山神社と合祀) |
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大谷山永林寺 |
寺の創建は南北朝時代。曹洞宗のお寺としては県内でも5本の指に入るほど古く、村の名を山号にした由緒ある寺である。白田内記藤原安重の懇情を受けた湖海理元和尚が開山。本師の道愛禅師を一世とした。虚空蔵菩薩御堂がある裏山の開山にあったが、寛文8年(1668)盗賊の放火にあい全焼。21年後の元禄2年(1689)現在地に再建した。境内には、白田内記家、白田外記家、大谷家の墓が並ぶ。 |
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永林寺山門の仁王尊 |
左陣に身長2.5m阿形(開口の形)の密迹金剛、右陣に2.4mの那羅延金剛。文久3年(1863)に西の天満宮焼失で焼け残った仁王尊を明治3年(1870)に仮安置していた永林寺山門に再建した。昭和21年、台風で仁王門が倒れ体内から祈願札が発見され、元禄5年(1692)に京都の仏師井関宗意、同念性の二人の手によって作られたものであることが分かった。(写真は那羅延金剛) |
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開山の虚空蔵様 |
永林寺開祖の道愛禅師が尊崇した虚空蔵菩薩の御堂は、永林寺があった開山に建立されている。二間四面のお堂で創建は古く、応永5年(1398)といわれている。徳川将軍から五石七斗のご朱印状を受け、由緒ある虚空蔵様として信仰されてきた。 |
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ニ渡観音 |
ニ渡観音は応永2年(1395)に建てられた町内でも古い観音堂である。堂内の縁起書によれば「白田内記家の先祖が月山参りの途中、白髪の老人に逢い『私はニ渡りの神なり、郷里に帰りニ渡の社を建て信心すれば必ずや村を守るであろう』というお告げがあったので社を建て自ら別当となった。」とある。徳川将軍より二石六斗のご朱印状を受け、格式ある神仏として崇拝されてきた。 |
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若宮八幡宮 |
創建不詳。最上家親が寒河江城主であった慶長9年(1604)、堀(保利)内匠に与えた安堵状などからみて、400年以上も前と推測される。最上家改易後、引き続き徳川将軍より二石九斗六升のご朱印状を受けている。江戸時代には180坪の境内をもち、本社、拝殿ともに10.5坪、稲荷社、鳥居などもあったという記録がある。現在は保利家の庭園内に記念の小祠が建てられてある。 |
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八幡神社 |
江戸時代の頃は、境内は990坪もあり、笹屋敷とか阿弥陀屋敷といわれていた。広大な境内には、本社、拝殿、鐘楼堂、鳥居が建ち、八幡領二十一石六斗四升のご朱印地を徳川将軍より安堵され、古くから格式ある八幡様として崇敬されてきた。明治に入り、神仏分離令により、八幡神社は別当である大谷家の門前に、阿弥陀如来は庭園内にとそれぞれ分離建立し、現在に至っている。 |
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大谷の六地蔵 |
あらゆる悩みや苦しみを身代わりし、どんな願いも叶えてくれるといわれ、昔から庶民の心のよりどころとして親しまれてきた。大谷にも主な街道の入口に六つの地蔵堂があったといわれ、村人の幸せや安全を守ってきた。愛宕地蔵尊・延命地蔵尊・鍛冶地蔵尊・永林寺延命地蔵尊・安産地蔵尊・えんこ淵地蔵尊(増水で流失)がある。(写真は鍛冶地蔵尊) |
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秋葉神社と秋葉山交遊の森 |
標高224.6メートルの秋葉山は、戦国時代には本城である真木山城の出城として、曲輪・空堀・堀切など中世の城館跡の遺構が明瞭に残る。延享4年(1747)二代鈴木清助が山頂に秋葉神社を創建。明治40年(1907)神社焼失。同43年(1910)に再建。昭和59年(1984)に破損がひどく解体、ご神体は鈴木家土蔵に安置されている。平成10年に北部地区の文化拠点として山頂まで遊歩道等が整備された。 |
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馬神ダム |
昭和初期、村の主産業だった生糸が大暴落した。このため開田計画を立て、昭和13年、用水確保のため大谷川をせき止め溜池建設に着手した。当時は日中戦争や太平洋戦争のさなかで資材が不足するなど困難をきわめた。昭和19年には国の命令で、未完成のダムに貯水し田植えを強行するが豪雨に耐えきれず決壊。さらに終戦を迎え復旧工事は中断。長い苦難の歳月を経て昭和24年春ついに完成した。 |
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谷地山の睡蓮池 |
大谷には睡蓮が咲き誇る美しいため池があります。渡邉勝美さん所有の“谷地山三連ため池”の一つで、毎年6月中頃に最盛期を迎えます。10年以上前に、沼に棲む在来メダカを守るために一株だけ植えたものが増えたそうで、現在は多くの人が訪れるスポットになりました。また、ため池までのアプローチも様々な花で彩られ、美しい田園風景の中を歩く事ができます。 |
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