|
|
 |
最上川最大急流部
五百川峡谷の誕生 |
第四紀、広くゆるやかだった流れは、地殻変動による大地の隆起とともに急流となり、流れは川底を浸食し、数万年の時間をかけて五百川峡谷が誕生しました。特異な瀬がたくさんある理由として、岩盤を削り込む流れのため川床が浅いことや、中上流部にあり比較的水量が少ないこと、横切る何本もの断層が存在していることなどが上げられるそうです。
佐竹伸一氏講演資料(pdf)
|
|
 |
最上川一きれいな水を作る水質浄化力 |
最上川最大の狭窄部の五百川峡谷は、最も大きな浄化力・蘇生力を持ち、最上川の心臓部と呼ばれています。白く波の立つ瀬は、酸素を充分に水に溶け込ませ、プランクトンや水生昆虫、魚に至るまで、いろんな生物を活発にし、汚れが餌となり浄化されます。上流部で汚れた水を蘇生させる五百川峡谷がなかったら、現在の最上川の水質は維持できていなかったそうです。
佐藤五郎氏講演資料(pdf)
|
|
 |
国内最長の舟道遺構 |
平成19年、佐藤五郎氏により五百川峡谷に30kmに渡り人工的に掘削した舟道があることが確認されました。これは元禄時代の米沢藩御用商人西村久左衛門が開削した遺構で国内最長の規模を誇ります。この大工事により、最上川舟運と北前船による西回り航路がつながり、米沢藩はもちろん流域に大きな産業をもたらしました。
※写真は渇水すると現れる明鏡橋下の舟道遺構
佐藤五郎氏資料(pdf) 五百川峡谷の舟道について
|
|
 |
県内一盛んだった簗漁 |
昭和30年代まで最上川全体には、およそ40ヵ所の梁(やな)がありましたが、五百川峡谷には11ヵ所、朝日町内だけでも7ヵ所もあり、県内一の梁数を誇っていました。五百川峡谷には、連続する瀬と岩盤そして中洲が多くあるため、簗をかける条件に恵まれていたのです。しかし、残念ながら上郷ダム開発時に全廃してしまいました。現在は白鷹町と大江町に観光簗が復活しています。
熊坂正一氏講演資料(pdf) |
|
 |
数ヶ月で育つ巨鮎 |
五百川峡谷は巨鮎が育つことで有名です。毎年、県内外から多くの友釣りファンを呼びよせています。巨鮎は重量150グラム以上、全長26センチ以上をいいますが、まれに300グラムを越え40センチ近い大物も育つそうです。鮎の餌であるけい藻やらん藻が五百川峡谷には特に豊富にあることが理由とされています。
熊坂正一氏講演資料(pdf) |
|
 |
最上川初の吊り橋「大平橋」 |
昭和39年(1964)最上川で初めての吊り橋として、今平〜大瀬の渡船場に、朝日・白鷹両町により架橋されました。大瀬の「大」と今平の「平」の字を使って「大平橋」と名づけられたそうです。500枚以上の渡り板が貼られた橋上からは、スリルと共に美しい五百川峡谷の風景を眺められ、人気のスポットとなっています。昭和の終わりにはNHKテレビの人気ドラマ「おしん」の撮影にも使われました。 |
|
 |
最上川唯一の上郷ダム発電所 |
昭和37年(1962)最上川で唯一の発電用ダムが完成しました。23.5mのダムを築いて水をせき上げ、その落差で放水しタービンを回して発電しています。年間発生電力量は約8000万キロワット、一般家庭約2万戸分の発電を行い、朝日町や山形市に供給しています。
|
|
 |
国指定重要文化財
佐竹家住宅 |
江戸時代、大庄屋佐竹長右衛門家は、米沢藩の通船差配役を勤めた家柄です。船子(水主)雇い、綱手道の管理、梁仕掛けの管理、破船の救出における人足割り当て、払い米(濡米)の世話など、安全な通船を図る仕事をしていました。「佐竹家住宅」は、元文5年(1740)に建てられたもので、現在も佐竹さんご家族がお住まいです。見学申込みはエコルームへ。
佐竹家住宅概要 |
|
 |
助ノ巻天神宮 |
舟運時代、最上川最大難所といわれた五百川峡谷には大難所5ヵ所(朝日町内4ヵ所)、難所15ヵ所(朝日町内11ヵ所)があり、多くの船が転覆しました。流域にはニ渡(荷渡・仁和足)神社や、利運稲荷(川通)など、安全舟運を祈願したとされる神社がいくつもあります。大難所“三階の滝”下流難所“天神巻き”のある助ノ巻には、上杉家が改修したとされる天神宮があります。社殿棟札には上杉喜平治の名前が書かれてあります。棟札写真
|
|
 |
八天稲荷神社 |
大難所八天(四ノ沢)でも、度々船が転覆し舟人が溺れ多くの積荷が沈みました。享保8年(1723)米沢藩ではこれを深く憂え「これは魔神の祟りならん」と、家臣を川底に潜らせたところ、燦然と輝く神玉石が見つかりました。さっそく川辺に稲荷大明神としてこれを祭り、宮宿村大庄屋鈴木惣三郎を別当としたのだそうです。
安政5年(1858)に現在地に移転されました。 |
|
 |
山形盆地の水田潤す四の沢頭首工(取水口) |
ここで取水された水は,9.1kmのトンネルを通り山形市、山辺町、上山市、天童市など山形盆地の農地で使用されています。全体で使用する水のおよそ半分の量を五百川峡谷に頼っているそうです。工事にあたり18人の尊い命が犠牲になりましたが、昭和58年江戸時代からの悲願が成し遂げられました。(国営最上川中流農業水利事業
)
詳しくは(pdf)
|
|
 |
五百川峡谷ビューポイント |
平成18〜20年度、朝日町エコミュージアムでは五百川峡谷をテーマに活動しましたが、その際に、峡谷の優れた風景も募集しました。ご推薦いただいた中から安全に立ち寄れる12ポイントを選びました。
五百川峡谷ビューポイント一覧
|
|
 |
県指定最上川ビューポイント |
いくつもの中州、白波のたつ激流、色とりどりのカヌー、りんご園そして遠くに旧明鏡橋や桜公園の美しい風景を見ることができます。「最上川ビューポイント」は
、山形県が「母なる川・最上川」への関心と愛着を深めることを目的として、最上川の良好な眺めを得られる地点を公募し、寄せられた258件129ポイントの中から11景を選定したものです。
|
|
 |
国内屈指の流れ
カヌーランド |
カヌーランドのあるかつての難所“面白の瀬”左岸(通称タンの瀬)は、フリースタイルカヌーにとって国内ベスト3に入る流れと絶賛されており、週末には全国から愛好家が訪れています。上級者は、飛んだり跳ねたり、前回りをしたりと曲芸のような演技を見せてくれます。また、上流の雪谷地点から、断崖に残る原生自然の中を、連続する瀬をクリヤしながら川下りするのも人気となっています。 |
|
 |
県内一の産地だった「かまど岩採り場跡」
|
カヌーランドの面白の瀬下流は、
明治時代から昭和20年代まで、煮炊き用のかまどや養蚕用の暖炉の岩を切り出す県内一の“かまど”産地でした。石職人が18人も働き、年間3000個以上を出荷し大繁盛していたそうです。当時は左岸側は流れておらず、昭和40年の羽越水害から現在の流れになったとのこと。カヌー愛好家に絶賛される面白の瀬左岸は、岩を切り出した段差にできた偶然の副産物だったのです。 |
|
 |
近代土木遺産「旧明鏡橋」 |
明治8年(1875)経費のすべてを地元で負担し、最上川本流で初めての橋「明鏡橋」が架けられました。その後、洪水等で流失が相次ぎますが、昭和12年(1936)ついにコンクリート製のアーチ橋が完成しました。これが「旧明鏡橋」です。六代目明鏡橋が完成するまで、69年間に渡り人々の往来を支えてきました。平成18年、優れたデザインを理由に選奨土木遺産に指定。橋の写真家平野暉雄氏(京都在住)は「開腹型アーチ橋の中では日本一心和む橋」と絶賛されました。
平野暉雄氏講演資料(pdf) 思い出(pdf) |
|
 |
フットパス |
五百川峡谷の有する水環境・歴史・文化等の資源を結びつけ、地域の活性化を図ることを目的に、歩くことを楽しむための小径“フットパス”が、カヌーランドから明鏡橋下まで整備されました。国内最長の舟道遺構、カヌー、近代土木遺産の旧明鏡橋など、五百川峡谷の特長を感じながら歩くことができます。
|
|
|
金毘羅石碑 |
金毘羅権現は舟乗りやその家族が安全を願い信仰していたものです。『朝日町の石佛』(朝日町長寿クラブ発行)によると、町内には象頭山・金毘羅権現の石碑が21基もあります。江戸時代末期のものが多く、大巻観音地蔵堂には寛永六年(1629)に立てられた町内で最も古い石碑があります。石碑の多さは最上川舟運が栄えたことを現しているのだそうです。
横山昭男氏講演資料(pdf)
|
|
 |
栗木沢
桜公園 |
明鏡橋近くの高台(上の山)にある桜公園は、地元栗木沢区で整備された憩いの場です。桜咲く頂上からは、五百川峡谷ビューポイントの一つの、新旧二つの明鏡橋が架かる美しい景色を眺めることができます。東屋も整備されていますから、お弁当を広げるおすすめポイントとなっています。
風景写真
|
|
 |
上川原山ノ神縄文遺跡(舟渡) |
平成10年(1998)に発掘調査が行われ、県内ではじめて三内丸山遺跡のような埋めて立てられた柱根が発見されました。大きなものでは直径40センチの木の柱が24本発掘され、約3000年前の縄文時代晩期の遺跡と考えられています。現在は埋め戻されてあります。 |
|
 |
ヤマガタダイカイギュウ発掘地(大江町用) |
昭和53年、用の当時小学6年生だった斉藤正弘君と渡辺政紀君が発見。ヤマガタダイカイギュウは800万年前の海にすんでいたほ乳類で、ステラーカイギュウ(18世紀に絶滅)の祖先にあたるものではないかと考えられています。
海牛類の進化を知る上で世界的に貴重なもので県指定文化財となっています。
詳しくは大江町ホームページ |
|
 |
最上川最大の絶壁(大江町用) |
水面より170mの高さを誇る最上川最大の絶壁が明神断崖(通称:用のはげ)です。江戸時代の舟人も圧倒したと伝えられ、その姿は大朝日岳山頂からも確認できます。朝日町真中川岸からの見学地は、まだ整備されておらず分かりづらくなっています。エコミュージアム案内人をご利用下さい。
|
|
 |
沈提(ちんちょう) |
明治時代の大土木工事。寒河江市、中山町、山辺町の水田を潤す用水のための取水堤が設けられました。
四ノ沢頭首工とともに、山形盆地の農地には相当量の五百川峡谷のきれいな水が利用されています。 |
|
 |
|