館山周辺を観る                      (朝日町新宿)  


史跡・名所
 
館山 鳥屋ヶ森城跡

 宮宿や新宿(あらじく)地区の東に位置する山地。岸美作守(きしみまさかのかみ)義満が居城した鳥屋ヶ森城跡。永禄8年(1565)娘の弥生姫と八ッ沼城主原甲斐守の子兼道との婚約成立をもって最上義光との五百川合戦につながり両城ともに落城。(天正9年、12年説もあり)慶長5年(1600)の出羽合戦では上杉勢に攻められ再び落城。曲輪、三重掘、たて掘、家臣の屋敷跡などが残る。

山頂のテレビ塔

 館山山頂へは新宿の東永寺裏手に続く山道を車で10分ほど。(舗装はされているが道は狭い)山頂の鳥屋ヶ森城跡には、通称“テレビ塔”と呼ばれる放送局の中継施設が設置され、朝日町の中部・西部地区に電波を送っている。

山頂からの眺め

 山頂の城跡からは朝日岳や月山・葉山、朝日町西〜中〜北部の町並みを一望することができる。城主の岸美作守も眺めていたであろう景色に遥かな歴史を感じる。山頂は遊歩道が整備され、鐘楼堂跡を訪ねることもできる。

東善院 瑠璃殿(薬師堂)

 薬師如来を祀る瑠璃殿(堂)は、宝永5年(1708)の棟札から、羽黒山修験の末寺で豊龍神社(宮宿)を祀るもと東守寺の配下寺だったことが分かった。木造薬師如来立像は平成5年に山形県有形文化財に指定された。毎月8日が“おようが”と呼ばれるお参りの日とされ、例祭は5月8日だったが、現在は第2日曜日に新宿区民をあげて賑やかに行われている。
熊谷與志雄さんのお話(pdf)

不動院跡と墓所

 昭和のはじめ頃まで、参道左側の山手に薬師堂を守っていた不動院と呼ばれる羽黒山の末寺があった。参道のそばには代々法印様のお墓が並んでいる。薬師堂の十二神将の像は、この不動院に置かれ入口で薬師様を護っていた。

薬師如来立像(山形県指定有形文化財)

 肩幅が広く堂々とした正面観をあらわし、衣文も流れるように美しく、藤原様式の典型的な表情をしている。日光・月光菩薩が脇侍を務める薬師三尊の形をとる。朝日町で最も古い仏像であり、製作年代は12世紀の比較的早い時期と推定されるが、『蒙古録』では、天地天皇の時代(662〜71)京都誓願寺の本尊阿弥陀如来を造立した際、その余材をもって作り瑠璃殿に納めたとされる。

日光・月光菩薩と十二神将像

 薬師如来は人々の心身にまつわるあらゆる病や苦悩を取り除いてくれる。日光菩薩は昼、月光菩薩は夜、薬師如来の助手の働きをして人々を守る。十二神将は薬師如来や崇める人々の守りや、日光・月光菩薩の手助けを一日十ニ支の刻を交代して務める役割を持つ。 地方の小さな村で十二神将までそろっているのはとてもめずらしいとされる。全ての像は平成3年に京都美術院で修理されている。

愛宕山 東永寺

 天文年間(1532〜1553)に宥白上人により開山。はじめは館山の陰の倉沢にあったが、寛永年間(1624〜1643)に真言宗の祈祷寺として現在地に移った。往古はご朱印寺でもあり信仰を集めひろく寄進された板札が見られる。ご本尊は秘仏の延命地蔵菩薩。脇侍に千手観音、三十三観音、弘法大師像が祀られてある。最上48ヵ所地蔵尊札所第24番札所。五百川霊場千手観世音第25番札所。

東永寺の乳地蔵信仰

 東永寺には布で作られた乳房がいくつも奉納されてある。本尊の地蔵菩薩は通称“乳地蔵”と呼ばれ、乳が出なくて困っている人が祈願した。乳が出たら布で乳房を作り奉納した。粉ミルクの普及とともに祈願する人も少なくなった。
熊谷與志雄さんのお話(pdf)

児翫(じがん)の石塔

 東永寺では、天保3年(1832)から明治7年(1874)まで“東永寺学問所”として寺子屋が開かれ、7〜10歳までの教育が行われていた。裕福な家庭の子供だけでなく区別なしに使用人の子供なども学べ、100人以上の大人数だったといわれている。文久4年(1864)お堂左側に立てられた「児翫」の石塔は、子供を愛した東永寺の象徴といえる。

郷倉(ごうぐら)

 東永寺の隣に、冷害や干ばつなどの不作時に備えて地区で米を蓄えておいた倉が残っている。“恩賜郷倉”の看板は昭和のはじめに天皇陛下から予算をもらって建てたことを表している。郷倉は江戸時代から昭和まで続いてきた歴史を持ち、現在は地区の収納庫として使用している。
熊谷與志雄さんのお話(pdf)

愛宕神社
 慶応元年から2年(1861〜62)にかけて建立されたとあるが、東永寺が開創された時にはすでに愛宕山の山号を用いているため歴史は古いと思われる。現在の社は昭和54年(1979)に強風で倒壊し再建されたもの。
愛宕神社からの眺め

 新宿地区の小高い場所に立つ愛宕神社からは新宿や宮宿を眼下に眺められる。ベンチも設置され地区民の憩いの場となっている。

旧新宿警備所

 明治時代の建物と推定される。トタン屋根はもとは木場葺きだったそうで、独特な作りが新宿地区の自慢の建物となっている。一階は消防ポンプ庫、二階の火の見やぐらには畳が敷かれてあり、仮眠もできる夜警の拠点となっていた。夜警は戦争中まで毎晩行われていた。
熊谷與志雄さんのお話(pdf)

今井治郎三郎家屋敷跡
 今井治郎三郎家は鳥屋ヶ森城主岸美作守の家老を先祖とし、新宿の肝煎名主・大庄屋を務めた。特に14代治郎三郎は、横浜を拠点に蚕糸貿易の大事業を行い横浜商業会議所副会頭も務めた。さらに奥羽鉄道の誘致や電気事業、通信事業の促進など郷土振興に大いに尽力。15代は東五百川村長、16代は宮宿町長を務めるなど地方自治にも功績を残した。当時の隆盛を残された石垣に見ることができる。今井治郎三郎家について(pdf)
新宿の家なみ

 新宿という名前といえど、鳥屋ヶ森城の城下町にあたる新宿地区は、中心地の宮宿よりも古い歴史を持つ。だいぶ少なくなったが、古い建物がまだ数多く残りおもむきのある家並みが続いている。

旧高田家住宅

 新宿地区は、今井治郎三郎家の生糸製造工場があり、特に養蚕が盛んな地区だった。屋根構えの大きな家が多く残っているのは、屋根裏を蚕室に使っていたからである。特に大きな旧高田家住宅(現今井家)は、遠方からも買い付けに来る蚕の種屋を営んでいたとされる。
熊谷與志雄さんのお話(pdf)

 参考文献/『新宿のお薬師様』朝日町エコミュージアム研究会 『朝日町史 上巻』『朝日町の歴史』朝日町教育委員会
      『ふるさと朝日町散歩』朝日町広報委員会 「薬師如来立像について・
東永寺について」熊谷與志雄氏資料 他



※分かりづらい場所もございます。案内人の利用をお勧めいたします。

館山エリア概要
   


朝日町エコミュージアム