永正元年(1504)八ッ沼城主三代原美濃守慶秀が、信仰していた春日明神を勧請した。明治期には西五百川村の総鎮守として村社に列挌。祭神天児屋根命、武みか槌命、外四柱。例祭日は8月15日。うるう年には神事や神輿渡御、獅子踊りなどの行事が盛大に行われる。「八ッ沼七名勝」の一つ。
寛治4年(1090)、若狭守蔵人が、源義家に従って清原の残党・平田次郎・五郎を討ち取った功績が認められ、八ッ沼の地を賜り移り住み、砦を築いたのがはじまりとされる。建久年間(1190〜98)に子孫の重経が藤原泰衡の臣・谷川右京を討伐し簡単な塞を築城したとされる。正平年間(1346〜69)に長崎城主と戦って討死するまで代々若狭守が治めていた。
文明元年(1469)越前敦賀より原越後守が一族郎党を引き連れ築城。永禄8年(1565)四代原甲斐守の息子・兼道と鳥屋ヶ森城主岸氏の娘・弥生姫の婚約成立をもって山形城主最上義光との五百川合戦につながり両城ともに落城。(天正9年・12年説あり)慶長5年(1600)の出羽合戦では上杉勢に攻略。矢引き場、人見穴、堀切、曲輪、旗柱跡などが残る。
色とりどりの花壇の東屋で、のんびり春日沼の景色を眺めることができる。きれいなトイレには季節ごとの一輪挿しが飾られ、地元の皆さんの優しいもてなしを感じる。
八ッ沼山地からの地下水が湧いている。文政年間(1818〜1829)に、豊向庵という寺の解体移転にともなって出た土台石を使って造られたといわれ、村人の生活用水として長年利用されてきた。簡易水道がひかれた昭和30年代に一度姿を消したが、昭和63年に区民の願いにより復元された。
「八ッ沼七名勝」の一つ。現在は水田になっているが、天保13年(1842)以降に若宮寺住職盛恬法印が村人の暮らしが豊かになるよう開田した。小松家文書によると、布山にあった朝日嶽社の僧“山仙坊”という者が沼に入水し命果てたのでそう呼ぶようになったとある。また、八ッ沼城落城の際、一子兼通と婚約者の弥生姫が落ちのび身を沈め、一族郎党も自害した場所とも伝わる。
沼縁には明応年間(1492〜1500)に旧家佐竹三郎兵エ家が建立した薬師堂がある。傍らには南寿庵や屋敷があったとされる。薬師如来の祭礼の時、ここではじめて弥生姫と兼通は出会い、婚礼を前にして五百川合戦に巻き込まれるという悲しい物語が残る。
参考文献 /『八ッ沼物語』『水とくらしの探検隊 八ッ沼編』朝日町エコミュージアム研究会 『朝日町史 上巻』朝日町教育委員会 『最上の瀬音とともに』西船渡区史編集委員会 『ふるさと朝日町散歩』朝日町広報委員会 『朝日岳の歴史を訪ねて』長岡幸月著 他
大きな地図で見る
※分かりづらい場所もございます。案内人の利用をお勧めいたします。 八ッ沼とその周辺概要 八ッ沼七不思議見学会 フォトギャラリー
朝日町エコミュージアム